2013年07月03日

村上安吉A

村上 安吉(1880〜1944)
http://adb.anu.edu.au/biography/murakami-yasukichi-11201
文責 D.C.S.シソンズ
http://adb.anu.edu.au/biographies/author/?author=3411 

オーストラリアン・ディクショナリー・オブ・バイオグラフィー
(オーストラリアの歴史的人物辞典)より
http://adb.anu.edu.au/about-us/

murakami.jpg
※ この記事は、
http://kusimotorukaruka.seesaa.net/article/367804685.html
の、日本語翻訳、後半です。


1918年4月に、村上は破産宣告を受けた。妻は、2か月早く、彼の元を離れていた。500ポンドに達していた帳簿上の借金を先にかき集め、持ち去ったのである。えきは、その年の12月、日本で亡くなっている。1920年2月3日、彼はテレサ・シゲノ・ムラタとの結婚(故:1981)を、ブルームの地区登記所に届け出ている。当時、シゲノは23歳。日本人の親が、オーストラリアで生んだ娘である。グレゴリーは、真珠採取業を始めるために、村上から財政援助を受けたと、見られている。村上のおかげで、グレゴリーは、優秀な日本人ダイバーと真珠船の乗組員を確保した。1921年、グレゴリーは、養殖真珠を生産するため、村上と合弁事業を始めた。天然真珠の価格が下がるのを恐れた、西オーストラリアの真珠業者の協会は、計画の中止を州政府に申し入れた。

村上は、かなりのコストをかけ、潜水服をデザインし特許権をとった(1926)。 浮力を抑え、従来のタイプより軽くなったスーツで、ダイバーはより活動しやすくなるものだった。しかしそれは、商業的成功には結びつかなかった。1936年、グレゴリーは村上と家族が、ダーウィンへ引っ越すのを手助けした。その町で、村上は、カメラマンとしてビジネスを成功させた。1939年8月30日、村上はオーストラリアに帰化しようと申請を試みた。しかし、『アジア人他、有色人をオーストラリアに帰化させないことは、政府の方針である』とされ、受け付けられなかった。

1941年、日本が、第二次世界大戦に突入、村上とその家族は、他の日本人コミュニティの人たちとともに(民間人捕虜として)抑留された。1944年6月26日、村上はタツーラ捕虜収容所(ビクトリア州)で、心臓病のため亡くなり、カトリック儀式で現地の墓地に葬られた。妻と9人の子供(息子6人、娘3人)が残された。村上の遺骨は、のちに、カウラ(ニューサウスウェールズ州)の日本人墓地に移された。



※ 1897年(明治30年)、今から110年以上前、和歌山県田並(串本町)から海を超え、オーストラリアで生涯を送った村上安吉は、現在、オーストラリア南東部、ダーウィンから車でおよそ4時間ほどの、カウラ日本人墓地に眠っている。

※ 翻訳には、オーストラリア在住フォトジャーナリスト 金森マユが、協力してくれました。ありがとう!!
http://mayu.com.au/%e9%87%91%e6%a3%ae%e3%83%9e%e3%83%a6/
posted by 南 瑠霞 at 13:48| 和歌山 ☁ | TrackBack(0) | オーストラリアの日系人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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