2013年07月02日

村上安吉@

村上 安吉(1880〜1944)
http://adb.anu.edu.au/biography/murakami-yasukichi-11201
文責 D.C.S.シソンズ
http://adb.anu.edu.au/biographies/author/?author=3411 

オーストラリアン・ディクショナリー・オブ・バイオグラフィー
(オーストラリアの歴史的人物辞典)より
http://adb.anu.edu.au/about-us/

murakami.jpg
※ この記事は、
http://kusimotorukaruka.seesaa.net/article/367804685.html
の、日本語翻訳、前半です。


村上安吉(1880-1944)/ 撮影者不明

村上安吉(1880-1944)。日本人の商店主。1880年、日本の和歌山県、田並(現在の串本町)で生まれた。村上重兵衛と妻やすの次男である。16歳の時、安吉は、和歌山県出身の若者たちに加わり、オーストラリアにある真珠産業の町へ向かった。1897年8月、サラディン号という船に乗って、西オーストラリアのコサックに到着した。当時、オーストラリアには、同胞の日本人がおよそ3000人いた。彼は、馬車で、水を運ぶ仕事についた。しかしすぐに、西岡高蔵が所有する日本の商店に、正式に雇われ、1900年、ブルームに引っ越した。

1901年、西岡が亡くなり、会社はその妻、えきに引き継がれた。安吉は、1906年5月11日、えきと結婚。ブルームの登記所に記録が残っている。
えきは、村上より15歳年上であり、二人の間に子供はなかった。彼らの元で、ビジネスは発展した。彼らは、商品を輸入したり、卸売りしたり、小売業をしたりした。店は、写真スタジオとして、また、日本人居住者と真珠採取作業員のための銀行としての役割も担った。村上は、(日本人)コミュニティーのリーダーとなった。1907年12月の、年末休暇中、日本人とマレー人の作業員の間で、暴動事件が起き、彼は、二つのグループの友好回復に努めた。1911年ごろから、村上は財政難に陥った。1915年のローカル不況で、ダイバーや乗組員たちが、多くの預金を引き出すこととなり、彼は、ビジネスをたたんだ。それから、真珠採取業者A. C.グレゴリーは、利益の半分を分け合うと保障し、ダンピア・ホテルの経営のため、彼を雇用した。

※ 翻訳には、オーストラリア在住フォトジャーナリスト 金森マユが、協力してくれました。ありがとう!!
http://mayu.com.au/%e9%87%91%e6%a3%ae%e3%83%9e%e3%83%a6/
posted by 南 瑠霞 at 16:25| 和歌山 ☁ | TrackBack(0) | オーストラリアの日系人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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