2013年11月16日

エルトゥールルが世界を救う!!

エルトゥールルが世界を救う!!
映画化応援団に入りました!!
http://ertugrul.or.jp/

Tシャツ.png

裏.png

関連パンフ.jpg

Tシャツや、パンフが送られてきて、感激!!
120年前のトルコ船、エルトゥールル号の遭難事故が、
きっかけとなった、
日本和歌山とトルコの友好の輪。
悲しい事故を乗り越えて、国境を結ぶ心のつながりが、
世界平和に役立ちますように。
ラベル:串本 トルコ
posted by 南 瑠霞 at 14:00| 和歌山 ☀ | TrackBack(0) | 南 瑠霞の串本ばなし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月22日

日本で最初にアメリカが来航した町〜串本

レディ・ワシントンMINI.png

この船、どこかで見たことがありませんか?
洋画ファンなら、ああ!!あれだ!
と思った方もいるかもしれません。
実はこれ「パイレーツ・オブ・カリビアン 〜 呪われた海賊たち」
で登場した海賊船のモデルで、実在する帆船なんです。
船の名は「レディ・ワシントン号」。

歴史の教科書では現在、
アメリカから初めて日本に来航したのは、
ペリーの黒船だ!!
ということになっていますが、
実は、それよりずっと前に、日本にやってきて、
友好を深めようとした船がありました。
それがレディ・ワシントン号と、
もう一隻のグレイス号でした。

ペリーの来航は、1853年ですが、
なんと、そこからさかのぼること62年前、
1791年3月に、
レディ・ワシントン号が、和歌山県串本沖にやってきて、
寄港した記録が、アメリカで見つかっているのです!!
実は、アメリカは、
19世紀、横浜に来るずっと以前に、
18世紀の和歌山県に上陸していたんですね。

それを記念して建てられた
「日米修好記念館」が、
和歌山県串本町にあります。

修好館.JPG

記念館によると、
レディ・ワシントン号は、17世紀後半、
太平洋を渡って、貿易を目的に、
中国やアジアの国にやってきたらしい。
その途中で立ち寄ったのが、和歌山県串本町大島。

レディ・ワシントン.JPG

来航.jpg

船には、カナダからの、毛皮をたくさん積んでいたようですが、
なにせ、ここは、日本の本州最南端。
温暖な地域で、
みんなが、毛皮に興味を示さなかったんだとか。汗&笑

水平線.JPG

日米修好記念館の上から見える景色は、空と海と豊かな緑。
レディ・ワシントン号と、グレイス号は、
この太平洋の水平線の向こうから、やってきた。

パンフ.JPG

日本で最初に、アメリカと出会った町、
和歌山県串本町。
世界遺産“熊野古道”などにお越しの際は、
ぜひ、足を延ばして、
広がる水平線を見に来てください。
posted by 南 瑠霞 at 10:56| 和歌山 ☀ | TrackBack(0) | 南 瑠霞の串本ばなし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月17日

太地町の中学生たちのブルーム体験

私の祖父、村上安吉は、
明治時代オーストラリアのブルームに渡り、
様々な仕事をして、今も現地に名前が残っています。

ロード.jpg
(*関連記事 http://kusimotorukaruka.seesaa.net/article/367568087.html )

そんなブルームには、当時、
うちの実家のある和歌山県串本町のほか、
近くの太地町からも、多くの日本人が、上陸しています。
(*関連記事 http://kusimotorukaruka.seesaa.net/article/375836954.html

太地町には、私のように、
祖父母や、そう祖父母のお墓が、
オーストラリアにある人たちも、大勢いるんですね。

そんな町の歴史を学ぼうと、
太地町では毎年夏に、中学生たちを、
ブルームとの国際交流に送り出しています。

今年も、中学生たちは、9日間の旅の中、
地元の家庭にホームステイして、
現地の歴史を学んだり、日本人墓地を見学したり、
若者たちと、交流をしたりしたのだそうです。

9月に、そんな中学生たちの、
体験報告会に行ってきました。

交流記MINI.jpg

中学生たちが交流したのは、
セント・メアリーズ・カレッジの、若者たち。

歓迎パーティーがあったり、
近郊に出かけて、ラクダに乗ったりと、
日本では体験できない、
様々な出来事があったようです。

歓迎パーティーミニ.jpg

ラクダMINI.jpg

中学生たちは、みんな、
ブルームの若者たちの、個性豊かな姿や、
食・生活の違い、積極的な姿に、にとても刺激を受けたと報告し、
「英語は、文法ではなく、伝えることが大切だ!と気づいた」
「これから、また、いろんな挑戦をしていきたい」と、
目を輝かせて話してくれました。

一人の女の子は、遠いブルームのひいおじいさんのお墓に、初対面、
お花を供える姿が、地元の新聞に紹介されていました。

新聞ミニ.jpg

太地公民館には、
当時の日本人たちが、ボタンの材料として採取した、真珠貝や、
ダイバーたちの、船に送る合図の表など、
様々なものが、展示されています。

ボタンミニ.jpg

ダイバーの合図ミニ.jpg

会場で、最初に挨拶してくださったのは、
太地町の教育長さんで、国際交流協会会長の、
宇佐川彰男さん。とても積極的で熱い方!!
教育委員会というと、最近全国では、
事なかれ主義などで頼りなく、心配される地域も多いのですが、
太平洋の大きな波のような人柄の教育長さんたちが、
しっかり、歴史や思いを後世に伝えようと、
尽力されているのにも、感動しました。

国際交流協会ミニ.jpg

こうして、いろんな歴史を伝えあい、
違った文化に触れあうことは、
人と人のつながりを知ることであり、
自分を知ることにも通じる素敵なことですね。
関係者のみなさんにも、心より御礼申し上げます。

みんなで、こうした思いを、伝えて行こうね。
中学生のみんな、素敵な報告、ありがとう!!
posted by 南 瑠霞 at 12:45| 和歌山 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日系人取材こぼれ話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月29日

エルトゥールル号の遭難

小学館から、本が出ました。
「エルトゥールル号の遭難」という本です。

本.jpg

1985年、イラン・イラク戦争が起きたとき、
現地の日本人たちを、ぎりぎりで脱出させてくれたのは、
トルコの飛行機でした。
トルコは、他国の戦争勃発時、ミサイルが飛び交う中、
なぜ、命のかかる危険な飛行を、
異国の日本人のために、決行してくれたのでしょうか?

そこには、120年以上も前、
日本 和歌山県沖でのエピソードが、
隠されていました。

貝.png

1890年、日本の天皇に会いに来た、
オスマントルコの使節団船、エルトゥールル号が、
帰りの航路、和歌山県串本沖で、遭難したのです。
9月と言えば、台風の季節。
嵐による高波と、激しい風雨が、船を襲ったのです。
そのとき、串本の人たちが、
海に沈みかけたエルトゥールル号から、
必死に、乗組員たちを助けたのだそうです。
私たちの先祖の、友情のお話が、この本に紹介されています。

航路.jpg
エルトゥールル号の航路

遭難地点(小).jpg
遭難地点

海.jpg
この海が、エルトゥールル号の遭難現場。
美しい海岸線ですが、多くの岩が切り立ち、
人が海に投げ出されたら、とても危険な場所です。
串本の人が、一刻も早く助けたい!と思った気持ちが、
わかります。

船.jpg
現在も、串本の沖では、
9月には、台風を避けて、大きな船が停泊していることがあります。


「エルトゥールル号の遭難」
寮 美千子(文)・磯 良一(絵)
小学館  1200円
posted by 南 瑠霞 at 10:24| 和歌山 ☁ | TrackBack(0) | 南 瑠霞の串本ばなし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月21日

和歌山県太地町

明治時代、オーストラリアにわたって活躍し、
オーストラリアの地に眠っている祖父、
村上安吉について、いろいろ勉強しています。

安吉.png

和歌山県串本出身の祖父は、
明治時代、オーストラリアの西部や北部の、
ブルームやダーウィンの街で、暮らしていました。

串本町では、戦前、真珠貝を採りに出稼ぎに行った、
木曜島の話が有名で、
島のトレス市や、アラフラ海など、
オーストラリア北東部の情報が豊富です。

一方、いろんな方のお話を聞くうち、
ブルームの情報の多くを、近くの太地町が、
保存していることがわかりました。

今回、遅い夏休みを取って、
太地町に、いろんなお話を伺いに行きました。

太地.png

<1> 太地町とブルームの関係
和歌山県太地町は、30年以上前から、
ブルーム市と友好都市提携を結んでいる。
かつて100年以上前の移民時代(19世紀末)、
太地町を含む、多くの南紀出身者らが、
ブルーム一帯に入植し、
真珠貝(白蝶貝)の採取などに携わっていたからである。
オーストラリア西部・北部に渡った、
当時の日本人の墓地は、現在ブルーム市内にあり、
「ジャパニーズ・セメタリー(Japanese Cemetery)」
と呼ばれている。
墓碑およそ700基が残され、900名以上が埋葬されている。
これは、海外の日本人墓地としては、世界最大級。
太地町は、この多くが地元出身者であることからも、
墓地の管理なども含め、
ブルーム市と、深い協力・連携体制を取っている。
両市では、これをきっかけに、
現在、様々な文化交流も続いている。

<2> 太地町教育委員会の本格的調査
太地町に、ブルームのほか、
南紀の移民資料の多くが集められているのは、
町の教育委員会が、専門の学芸員を置いて、
町を上げて、調査にあたっているからである。
ここ10年ほどで、積極的情報収集活動が行われ、
写真や記録など、様々な資料が、掘り起こされ、
保存・整理が、されるようになった。
太地町は、主に、オーストラリアのブルーム、
アメリカ西海岸、カナダに移民を送り出しているが、
そうした町出身者の情報のほか、
調査を進める過程で、南紀全体に及ぶ、
各地の移民関係資料も、集まってくることとなった。

また、ブルームの日本人墓地には、太地町出身者のほか、
南紀では、串本出身の木曜島関係者も多く埋葬されており、
関連資料は、太地町でも保管されている。
さらに、当時、西オーストラリアのコサックからブルーム入りした
村上安吉の記録も、一部太地町にまとめられている。
(このほか、ブルーム日本人墓地の名簿には、
全国各地の人の名前があり、
全ての資料は、太地町でも保存・管理している。)

貝.png

今回、太地町に伺って、
南紀一帯の移民者の、
大きな流れを教えていただくことができました。

太地町.jpg
写真は、向かって左から、
☆ 太地町 歴史資料室 研究員 江ア 隆司 さん
☆ 南 瑠霞
☆ 太地町 歴史資料 室学芸員 
櫻井 敬人(さくらい・はやと)さん。

この日は、お二人に、温かく迎えていただき、
私の知らなかったいろんなお話をお聞きし、
多すぎる情報に、
アップアップになりながら、帰ってきました。笑

江崎さんは、地元の小中学校の教諭や校長先生として、
たくさんの子供たちと過ごす中、
太地町の歴史の大切さを感じ、
こうした、資料の発掘・整理、
また、多くの方への移民文化を伝える研究活動を、
続けておられます。

櫻井さんは、学芸員として、
太地町の、移民調査活動を、中心になって進めています。
太地町に住んで7年。
当初は、アメリカボストン近郊で、
捕鯨についての学術調査を行っており、
その一環として、
太地町くじら博物館を訪れたのがきっかけで、
町の移民史調査に乗り出しました。
太地の町は、捕鯨とともにまた、
多くの移民たちの歴史に支えられてきた町だと知り、
興味を深くしたのだそうです。
7年前、アメリカ人の奥さんと共に帰国。
現在、お子さんと3人で、太地町に暮らし、
研究・調査活動を続けています。

何も知らない私の訪問に、
快く、いろんなことを教えていただいたお二人に感謝。
posted by 南 瑠霞 at 00:00| 和歌山 ☀ | TrackBack(0) | 日系人取材こぼれ話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月13日

ヤス子・パール・村上・南

ヤス子・パール・村上・南
(1923〜現在、和歌山県串本町にて暮らす)

村上家族写真.JPG
(向かって右から4番目、赤ちゃんを抱いたしげのの隣に座っているのが、ヤス子。)

1923(大正12)年7月12日
ヤス子は、西オーストラリア・ブルーム・ダンピヤタレスで、
村上安吉・しげののの、次女として生まれる。

1925年(大正14)6月、
ヤス子は、両親に連れられ、
姉の枡子(ますこ)、兄の安之助・十吉とともに、
父安吉の故郷、和歌山県串本町田並に帰国。
安吉としげのは、4人の子供を、
日本人(日本語)教育を受けさせるため、
安吉の姉、深見まさのに預け、養育を頼んだ。
その後、田並で生まれた吉子(赤ちゃん)だけを伴って、
再びオーストラリアへ戻った。

まだ小さかったヤス子は、
在世中だった父安吉の母”やす”や”まさの伯母”の、
生みの親のような慈しみのおかげで、息災に成長。

(文責:南 竹一)
posted by 南 瑠霞 at 16:23| 和歌山 ☁ | TrackBack(0) | ヤス子・パール・村上・南 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月03日

村上安吉A

村上 安吉(1880〜1944)
http://adb.anu.edu.au/biography/murakami-yasukichi-11201
文責 D.C.S.シソンズ
http://adb.anu.edu.au/biographies/author/?author=3411 

オーストラリアン・ディクショナリー・オブ・バイオグラフィー
(オーストラリアの歴史的人物辞典)より
http://adb.anu.edu.au/about-us/

murakami.jpg
※ この記事は、
http://kusimotorukaruka.seesaa.net/article/367804685.html
の、日本語翻訳、後半です。


1918年4月に、村上は破産宣告を受けた。妻は、2か月早く、彼の元を離れていた。500ポンドに達していた帳簿上の借金を先にかき集め、持ち去ったのである。えきは、その年の12月、日本で亡くなっている。1920年2月3日、彼はテレサ・シゲノ・ムラタとの結婚(故:1981)を、ブルームの地区登記所に届け出ている。当時、シゲノは23歳。日本人の親が、オーストラリアで生んだ娘である。グレゴリーは、真珠採取業を始めるために、村上から財政援助を受けたと、見られている。村上のおかげで、グレゴリーは、優秀な日本人ダイバーと真珠船の乗組員を確保した。1921年、グレゴリーは、養殖真珠を生産するため、村上と合弁事業を始めた。天然真珠の価格が下がるのを恐れた、西オーストラリアの真珠業者の協会は、計画の中止を州政府に申し入れた。

村上は、かなりのコストをかけ、潜水服をデザインし特許権をとった(1926)。 浮力を抑え、従来のタイプより軽くなったスーツで、ダイバーはより活動しやすくなるものだった。しかしそれは、商業的成功には結びつかなかった。1936年、グレゴリーは村上と家族が、ダーウィンへ引っ越すのを手助けした。その町で、村上は、カメラマンとしてビジネスを成功させた。1939年8月30日、村上はオーストラリアに帰化しようと申請を試みた。しかし、『アジア人他、有色人をオーストラリアに帰化させないことは、政府の方針である』とされ、受け付けられなかった。

1941年、日本が、第二次世界大戦に突入、村上とその家族は、他の日本人コミュニティの人たちとともに(民間人捕虜として)抑留された。1944年6月26日、村上はタツーラ捕虜収容所(ビクトリア州)で、心臓病のため亡くなり、カトリック儀式で現地の墓地に葬られた。妻と9人の子供(息子6人、娘3人)が残された。村上の遺骨は、のちに、カウラ(ニューサウスウェールズ州)の日本人墓地に移された。



※ 1897年(明治30年)、今から110年以上前、和歌山県田並(串本町)から海を超え、オーストラリアで生涯を送った村上安吉は、現在、オーストラリア南東部、ダーウィンから車でおよそ4時間ほどの、カウラ日本人墓地に眠っている。

※ 翻訳には、オーストラリア在住フォトジャーナリスト 金森マユが、協力してくれました。ありがとう!!
http://mayu.com.au/%e9%87%91%e6%a3%ae%e3%83%9e%e3%83%a6/
posted by 南 瑠霞 at 13:48| 和歌山 ☁ | TrackBack(0) | オーストラリアの日系人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月02日

村上安吉@

村上 安吉(1880〜1944)
http://adb.anu.edu.au/biography/murakami-yasukichi-11201
文責 D.C.S.シソンズ
http://adb.anu.edu.au/biographies/author/?author=3411 

オーストラリアン・ディクショナリー・オブ・バイオグラフィー
(オーストラリアの歴史的人物辞典)より
http://adb.anu.edu.au/about-us/

murakami.jpg
※ この記事は、
http://kusimotorukaruka.seesaa.net/article/367804685.html
の、日本語翻訳、前半です。


村上安吉(1880-1944)/ 撮影者不明

村上安吉(1880-1944)。日本人の商店主。1880年、日本の和歌山県、田並(現在の串本町)で生まれた。村上重兵衛と妻やすの次男である。16歳の時、安吉は、和歌山県出身の若者たちに加わり、オーストラリアにある真珠産業の町へ向かった。1897年8月、サラディン号という船に乗って、西オーストラリアのコサックに到着した。当時、オーストラリアには、同胞の日本人がおよそ3000人いた。彼は、馬車で、水を運ぶ仕事についた。しかしすぐに、西岡高蔵が所有する日本の商店に、正式に雇われ、1900年、ブルームに引っ越した。

1901年、西岡が亡くなり、会社はその妻、えきに引き継がれた。安吉は、1906年5月11日、えきと結婚。ブルームの登記所に記録が残っている。
えきは、村上より15歳年上であり、二人の間に子供はなかった。彼らの元で、ビジネスは発展した。彼らは、商品を輸入したり、卸売りしたり、小売業をしたりした。店は、写真スタジオとして、また、日本人居住者と真珠採取作業員のための銀行としての役割も担った。村上は、(日本人)コミュニティーのリーダーとなった。1907年12月の、年末休暇中、日本人とマレー人の作業員の間で、暴動事件が起き、彼は、二つのグループの友好回復に努めた。1911年ごろから、村上は財政難に陥った。1915年のローカル不況で、ダイバーや乗組員たちが、多くの預金を引き出すこととなり、彼は、ビジネスをたたんだ。それから、真珠採取業者A. C.グレゴリーは、利益の半分を分け合うと保障し、ダンピア・ホテルの経営のため、彼を雇用した。

※ 翻訳には、オーストラリア在住フォトジャーナリスト 金森マユが、協力してくれました。ありがとう!!
http://mayu.com.au/%e9%87%91%e6%a3%ae%e3%83%9e%e3%83%a6/
posted by 南 瑠霞 at 16:25| 和歌山 ☁ | TrackBack(0) | オーストラリアの日系人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月29日

Murakami Yasukichi

Murakami, Yasukichi (1880–1944)
by D. C. S. Sissons

This article was published in Australian Dictionary of Biography,
Volume 15, (MUP), 2000

murakami.jpg

 Yasukichi Murakami (1880-1944), by unknown photographer
Yasukichi Murakami (1880-1944), Japanese storekeeper, was born on 19 December 1880 at Tanami, Wakayama prefecture, Japan, second son of Jòubei Murakami and his wife Yasu. At the age of 16 Yasukichi joined the flow of Wakayama younger sons to the Australian pearling towns, arriving at Cossack, Western Australia, aboard the Saladin in August 1897. Some three thousand of his countrymen were then in Australia. He worked with a carter, delivering water, but soon secured permanent employment with Takazò Nishioka, a Japanese storekeeper, with whom he moved to Broome in 1900.

 On Nishioka's death in 1901, the enterprise passed to his widow Eki, née Yamaguchi, whom Murakami married on 11 May 1906 at the district registry office, Broome. She was fifteen years older than he and they remained childless. Under their direction, business expanded. They operated as importers, wholesalers and retailers; the store also served as a photographer's studio and a savings bank for Japanese residents and pearling crews. Murakami became one of the leaders of his community. When, during the annual lay-up in December 1907, violence broke out between Japanese and Malay crewmen, he helped to restore peace between the two groups. From about 1911 he was in financial difficulties. A local slump in 1915 led many of the divers and crewmen to withdraw their deposits and he was forced to close the business. The pearler A. C. Gregory then employed him to manage the Dampier Hotel in return for a half-share of the profits.

 In April 1918 Murakami was declared bankrupt. His wife had left him two months earlier, having first collected for herself book debts amounting to some £500. She died in Japan in December. At the district registry office, Broome, on 3 February 1920 he married (Theresa) Shigeno Murata (d.1981); she was aged 23, the daughter of Japanese parents and Australian born. It was generally believed that Gregory had received financial assistance from Murakami to enter the pearling industry and that he secured the best of the Japanese divers and crews through Murakami's good offices. In 1921 he entered into a joint venture with Murakami to produce cultured pearls. Alarmed that the price of natural pearls would fall, the West Australian Pearlers' Association persuaded the State government to prohibit the scheme.

 At considerable cost, Murakami designed and patented (1926) a diving suit. Less buoyant and lighter than the conventional type, it afforded the diver greater mobility. It was not, however, a commercial success. In 1936 Gregory helped Murakami and his family to move to Darwin where he established a successful business as a photographer. On 30 August 1939 he applied to be naturalized. His application was rejected on the ground that 'it is the established policy of the Government not to naturalize Asiatics or other coloured persons'.

 When Japan entered World War II in December 1941, Murakami and his family−with the rest of the Japanese community−were interned. He died of 'chronic myocarditis' on 26 June 1944 at Tatura internment camp, Victoria, and was buried with Catholic rites in the local cemetery. His wife, and their six sons and three daughters survived him. Murakami's remains were later reinterred in the Japanese cemetery, Cowra, New South Wales.
posted by 南 瑠霞 at 02:51| 和歌山 ☔ | TrackBack(0) | Japanese-Australian from Kushimoto,in English | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月28日

金森マユさん

2013年2月 
オーストラリアのフォトアーティスト 金森マユさんが、
私の実家、和歌山に、わざわざ取材に来てくれ、
村上安吉のことなどをいろいろ教えてくれました。

その時の英語の記事は、こちら!!
http://aboutmurakami.wordpress.com/2013/02/20/252/

それを私が、日本語に翻訳した記事が、こちら。
http://minamiruruka.seesaa.net/article/331015115.html

村上ファミリー.png

私が、生まれて初めて、
祖父のことを、まじめに調べてみようというきっかけをくれたのが、
金森マユさん。

ここからしばらく、彼女にもいろいろ教えてもらいながら、
オーストラリアと日系人について、考えようと思っています。
感謝!!
posted by 南 瑠霞 at 00:02| 和歌山 ☁ | TrackBack(0) | 日系人取材こぼれ話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月25日

探検コム

2013年6月
南 瑠霞が、オーストラリアの日系人のことを、
たどりたいと思った時、
最も困ったのは、
参考文献が、ほとんど英語で、
日本語で参考になるものが、
チョーーーー少なかったこと。汗

で、インターネットをいろいろ見ていたら、
とある、木曜島の真珠ダイバーたちの、記事を見つけた。
(こんな曜日の付いた名前の島があるんですよね〜、
オーストラリアに!!驚&笑)
これが、心細かった私に、
オーストラリアの日系人のルーツを垣間見せてくれた、
ありがたい記事だったのです。
その元をたどってみると、
「探検コム」というサイトに行き当たった。
なんだか、雑誌の編集者の方が、
本業のかたわら、
世界各地に行っており、
それを、どんどん、探検記事にしてまとめたのが、
巨大なサイトになっているようであった。

ダメもとで、勇気を振り絞って、
この方に「日本語資料を探したい!!」と、
連絡を取ってみたら、
瞬く間に、
ものすごくたくさんの、200ページ以上の資料を探し当てて、
送ってくれた。
見も知らぬ私に!!!!驚&喜

実は、これに励まされて、私は、
19日、ミキモト真珠に行ってみた。
そこから、私の、日系人資料集めは、
始まっている。

おとぎ話のように、人に出会って、
勇気をもらって、また次に!!
そうして、私は、フェイスブックを立ち上げた。
http://www.facebook.com/profile.php?id=100006165131794#!/profile.php?id=100006165131794

探検コムのKさん!!
本当に、ありがとうございます。
おかげで、ちょこっと前に進んでいます。

また、話が進んだら、Kさんに、
ご報告せねば!

<探検コム>
たんけんこむ.png
http://www.tanken.com/
posted by 南 瑠霞 at 17:55| 和歌山 ☁ | TrackBack(0) | 日系人取材こぼれ話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月24日

About Broome and Darwin, Australia

Broome and Darwin are hometowns of my family.
In early 1900,
My grandfather Yasukichi Murakami did work of the pearling in Broome and ran the store in Darwin.
He was a Japanese-Australian, died in Australia.
His descendants still live in Broome and Darwin.
I live in Japan Tokyo now.

I was born and brought up in Japan.
But I feel that Australia is a hometown of my heart.
My mother was born in Australia, too.

There is a small street,that name is Murakami-Road,in Broome.
I investigate the history of Yasukichi Murakami now.

ブルームとダーウィン.png
posted by 南 瑠霞 at 01:31| 和歌山 ☁ | TrackBack(0) | Japanese-Australian from Kushimoto,in English | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月23日

南 瑠霞(みなみ・るるか)です!!

A南パー青空.jpg

南 瑠霞です。
手話通訳士で、
手話パフォーマー&手話コーディネーターという、
全国でも、とても珍しい仕事をしており、
和歌山県串本町・串本大使を任命していただきました。
串本のことを、多くの方に、お伝えするメッセンジャーです。

串本は、両親の故郷で、
現在の実家が、串本町田並にあります。

私自身は、
父が、米軍の通訳をしていた関係で、
広島県江田島町で誕生。
瀬戸内海の島で大きくなりました。
その後、高校時代を串本町で過ごし、
現在は、東京都世田谷区に住んでいます。

母方は、オーストラリアの日系人。
父方の多くの親戚は、アメリカ西海岸に出ています。

このブログでは、
おもに、串本の町のお話と、
オーストラリアの日系人の話を取り上げています。

よろしくお願いします。
南 瑠霞
posted by 南 瑠霞 at 17:02| 和歌山 ☔ | TrackBack(0) | 自己紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

オーストラリア・ブルームに残る「村上ロード」

ロード.jpg
*英語版はこちら → http://kusimotorukaruka.seesaa.net/article/367233731.html

村上安吉。ブルームの日本人コミュニティのリーダーだった。
また、当時の伝説的真珠業者、アンセル・グレゴリーの友人であり、良きパートナーだった。村上とグレゴリーは、20世紀という時代が動き始めたブルームで、長く協力関係を築いた。人々の心が、新しい力で世の中を切り開こうと、野心と意欲に満ちていたころである。

1922年、村上とグレゴリーは、この近くにあるエントランス・ポイントという場所で、真珠の養殖をしようと、密かに計画を立てていた。それが町の人々に知られると、抗議の声が上がり、彼らの計画は終わりへと向かった。警官が、すべての設備を壊してしまったのである。オーストラリア初の真珠養殖計画は、こうして消え去った。
(*注:当時、人々は天然真珠の値が下がることを恐れ、養殖に猛反対した。)

日本が、第二次世界大戦に突入した時、村上は、ブルーム在住の日本人コミュニティとともに、抑留された(日系民間人捕虜となった。)。ブルームで過ごした後、ビクトリア州の抑留キャンプで、寒さと湿気に体を弱らせ、1943年病死。
(*注:村上安吉の死亡日は、別の資料で1944年と記されており、多くの証言もあることから、1944年と思われる。)

ブルームの町の、養殖真珠貝孵化場につながるこの道に、村上安吉の名前を記す。
(*注:養殖真珠貝孵化場=真珠養殖のための貝を、交配などで育成する場所。)



☆この記事は、オーストラリア在住、フォトジャーナリスト 金森マユに、文字だけではわからない、真珠養殖専門用語や地名などについて教えてもらい、翻訳しました。それによって、当時の時代背景や地元の様子が、初めてわかりました。ありがとう!!
(金森マユ「About Murakami」http://aboutmurakami.wordpress.com/) 
posted by 南 瑠霞 at 12:00| 和歌山 ☁ | TrackBack(0) | オーストラリアの日系人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

Murakami Road in broome,Australia

Murakami Road in broome,Australia
Muarami Yasukichi is my grandfather.

ロード.jpg
※in japanese → http://kusimotorukaruka.seesaa.net/article/367568087.html

Yasukichi Murakami,a leader of the Japanese community in Broome ,was a friend and partner of the legendary pearling master Captain Ancell Gregory.Murakami and Gregory forged a lasting partnership in Broome at the turn of the century that was characterized by ingenuity,innovation and willingness to take a risk.

In 1922 Murakami and Gregory forged a secretive plan to produce cultured pearls at Entrance Point close to this spot. When the town discovered their plan the outcry was such they were forced to close the operation,with the police destroying all of their equipment. Thus ended the first attempt to produce cultured pearls in Australia.

When Japan entered WWU,Murakami was interned along with the rest of Broome’s Japanese community . After a lifetime in Broome he could not stand the cold and damp of the internment camp in Victoria and died there of pleurisy in 1943.

It is fitting that the road servicing Broome’s cultured pearl shell hatchery should bear Yasukichi Murakami’s name.
posted by 南 瑠霞 at 00:27| 和歌山 ☀ | TrackBack(0) | Japanese-Australian from Kushimoto,in English | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月22日

串本ブログ再開

手話パフォーマーで、手話コーディネーター、手話通訳士
南 瑠霞です。
ごくたまに、このブログに、串本に関する記事を書いていました。

自分のファミリーのことで、
話題がたまってきたので、
少し、オーストラリアに移住した、日系人の話を、
つづりたいと思います。

毎日は、頑張れないとは思いますので、
のんびり参りますが、
そうとは言っても、2015年は、戦後70年。
2次大戦前後の、オーストラリア日系人のこと、
少し、追いかけていければという気持ちです。

いつも、皆さん、ブログを見に来てくださって、
ありがとうございます。

橋杭岩.jpg
posted by 南 瑠霞 at 22:17| 和歌山 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | オーストラリアの日系人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月19日

ミキモトライブラリー

__ (8).JPG

祖父が、1900年代初め、
オーストラリアで、真珠関係の仕事をしていました。
それを取材し始めたのは、この日。
6月19日。

「祖父のオーストラリアでの真珠採取の活動について、
調べています。
でも、私は、英語ができません。
真珠で有名なミキモトさんに、
養殖が始まったころの、海外の様子、
何か、資料は、ありませんか?」

とお聞きしたら、広報の方が、快く、
「ミキモトライブラリー」をご紹介してくださいました。
宝石関係の、いろんな書籍を所蔵している、
ライブラリーで、
一般の人も、予約をすれば、
のぞかせてくださいます。

そこで、紹介してくださったのが、こうした本。

__ (6).JPG

__ (7).JPG

オーストラリアの日系人の真珠については、
木曜島の話以外、ほとんど日本語になっていないので、
本当に資料が少ないのです。
ミキモトライブラリーでも、
ほとんどの書籍が、英語などの外国語版でした。

何にも知らない私は、
まず、この本から、勉強をスタートさせることにしました。

お忙しい中、私にとても親切に、
対応してくださり、
いろんなことを教えてくださった、
担当の、青山顕さんに、感謝いたします。

☆ミキモトライブラリー
http://www.mikimoto.com/jp/stores/relation/library.htm
posted by 南 瑠霞 at 00:00| 和歌山 ☁ | TrackBack(0) | 日系人取材こぼれ話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月07日

橋杭岩

はしぐいいわ.JPG

夕焼けの橋杭岩です。
「はしぐいいわ」と読みます。笑

このブログでも、時々ご紹介しています。
今回も、串本カレンダーからです。

串本を離れた、同級生たちは、
橋杭岩の話をするとき、懐かし〜い目をします。
生まれ育った町を思い出し、
心を優しくしてくれる風景の一つです。

職場の友人は、この写真を見て、
「外国かどこかの風景みたい!!
ちょっと、ロマンチック!!」
と言ってくれました。笑
いや・・・・たぶん、
じかに見るとそれほどでは・・・汗&笑

串本の、海沿いの国道を車で走る機会があったら、
ぜひ、眺めてください。
posted by 南 瑠霞 at 19:54| Comment(2) | TrackBack(0) | 南 瑠霞の串本ばなし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月28日

大島水門祭

今日の、太平洋岸は、チリの地震で、
津波警報が出ていました。
和歌山県串本町も、
1メートル近い津波が来る可能性があるとのことでしたが、
夕方までに、被害はなかったようです。

南半球の津波が、北半球まで、
何時間もかかって到達する自然の脅威に、
世界がつながっていることを実感しました。

大漁船.jpg

2月の串本は、春の始まり。
写真は、県指定の無形民俗文化財「大島水門祭」
なのだそうです。
またまた、串本のカレンダーから、借用いたしました。笑
本土串本と、向かいの大島を結ぶ、
小さな海峡(水門)を、漁船が往復して、
競争します。
男の祭りですね。
posted by 南 瑠霞 at 17:04| Comment(1) | TrackBack(0) | 南 瑠霞の串本ばなし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月11日

ちょっとクイズに挑戦してみてください。笑

ちょこっと、クイズです。笑

岩手県宮古市
山口県下関市
青森県大間町
和歌山県串本町

この4つの町(市)の、共通点はなんでしょう?

でも、その前に・・・
みなさん、
この4つの町(市)、
全部、知っていますか? 笑&汗

私は、実際のところ、
山口県下関市は、わかります。
そして、和歌山県串本町が、
自分の実家ですので、ここもわかります。笑

でも・・・・
岩手県宮古市
青森県大間町
は、どこにあるのか、
何の町(市)なのか・・・??
本当に、ごめんなさい。
これから、勉強したいと思います。

そして・・・
この4つの町(市)の共通点は!?

実は!!
この4つが、日本の本州の、
東西南北の端っこの街なんですって!!

ご存知でしたか?
2009年11月には、
この4つの街の端っこの首長、
つまり市長さん、町長さんが、
わが町、串本町に、集まって下さったんですって。
素敵ですね
こんなところまで、遠くから来て下さって、
とてもうれしく思いました。
「本州四端交流事業」というのだそうです。

行政問題より、
きっと観光などの交流情報交換が、
主なんだと思います。
これからは、地方の時代です。
みんなで、観光・商業の活性化、
楽しく協力し合って、頑張りたいですね。

いろんな町のこと、
少しずつ、知っていきたいと思いました。

串本広報.jpg
posted by 南 瑠霞 at 17:31| Comment(4) | TrackBack(0) | 南 瑠霞の串本ばなし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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